2022.10.05

パルプマガジンみたいに薄っぺらいコラム

親愛なる友だちへ、ひねもです。

こないだは新宿ワイルドサイドトーキョーでライブ。

2018年振りにthe IGNORANTSとワイルドサイドで共演。そこにアブクスもいてくれて。いてくれてというかアブクスが話をしてくれたおかげでこのスリーマンってことでとにかく強力なイベント。

2019年にジョンリーのカバーを出したレコ発のときthe IGNORANTSが出演決まっていたものの諸事情でキャンセルに。

そこから月日は流れ、コロナ禍とか色々あったけどまたこうして会えた。

音楽を続けワイルドサイドを歩いて、またワイルドサイドに辿り着いたのだ。

最近”千利休”にちょっと興味があっていくつか本を読んだ。
 
誰でも名前を知ってる有名人。


“茶の湯”という日本独自の文化。

その中で“侘茶”というスタイルを確立させた人物。


“茶道“というとどうしても厳格な格式ばったものといった印象が強い。



“侘び寂び”なんて言葉もある。


枯れた冷たいイメージだ。



しかしながら本当にそうだろうか。



元々は豪華だった茶の湯に対してアンチテーゼ、カウンターカルチャーとして”侘茶”があるのだ。

そして現在に至るまでの千利休のイメージの大半は豊臣秀吉に重用された後によってだが、そのとき千利休は既に61歳。

人生のかなり後半のときのみで人物像が語られているのだ。

これでは千利休のほんの一部分を見ているに過ぎないのではないだろうか。



ちなみに”侘び寂び”という言葉は千利休死後だいぶ経って江戸時代に入ってから呼ばれ始めたらしい。


存命中の安土桃山時代にはその言葉自体はあったものの本人がそう言っていたわけではないらしい。

知らなかった〜。




“利休”という号を賜ったのが63歳。そのときに名実ともに天下一の茶人として知れ渡ったらしい。

70歳で鬼籍に入ったことを考えるとかなり晩年のことだ。

織田信長に見出されたのも50代。





もちろん10代の若い頃からお茶の道にのめり込み、その世界で色々と活躍はしていた。



千利休には色々な顔がある。



裕福な魚問屋の倅という商人の顔。

三人の妻がいたという恋多き情念の顔。

在家ながら三十年に渡り参禅し悟りを開いたという禅の人という顔。



茶道と禅の組み合わせは今のイメージそのままだ。



んで千利休が“侘茶”を発明したわけではなくてもっと昔に村田珠光という人がいて、その人が編み出したスタイル。

ちなみに村田珠光はあの一休さんの弟子。



で、お茶を通して人間としての成長を促す。

つまり”お茶×禅”って思想に共鳴したのが武野紹鴎。

この人が千利休の師匠。


ちなみに村田珠光と武野紹鴎は生きた年代が全然違って面識は無い。



儀式的で格式ばかり気にしたお茶会はつまらない。

それに珍しい舶来品の道具ばかりもてはやされて、それをたくさん持ってる金持ちの自慢大会になってるのは本来の目的となんか違くない?



要らない部分が多過ぎるし、日常生活で使うような茶碗でもお茶やっていいじゃん。



不完全こそ美しいのだ!

大事なのは気持ちの在り方でしょ!



ってのが”侘び寂び”らしい。





なんかもう侘茶ってロックンロールじゃん。

ドブネズミみたいに美しくなりたいじゃん。

と思った。


で、そんな侘茶を極めて広めたのが千利休。

村田珠光から武野紹鴎そして千利休と100年経ってついに完成したということらしい。

侘び寂びは枯れているというより削ぎ落としてなお残る情熱という印象に変わった。


で、千利休の美意識ってのは凄まじくて常に定規を持ち歩いていて物を置く位置は畳の目いくつとか決めてたらしい。


諺じゃないんだからと突っ込みたくなってしまうが、そのセンスが凄まじくてみんな納得してしまうらしい。



そうセンス。

センスの塊なのだ。


それまでのお茶会は豪華絢爛が最高!
外国の珍しい道具持ってたら威張れる!


みたいなある意味でとても分かりやすかったんだけど、侘茶は引き算の美学なのである。



無駄を省く、そして不完全の中に美を見出すというセンスの世界。



そうなるとこれがわからない奴はセンスの無いやつだみたいなニュアンスが漂う。


最後は切腹させられたのも傲慢だったせいなんじゃないかという説もあって。



そう千利休は豊臣秀吉に切腹を命じられてその生涯を突然終えるわけだけど理由は明確にはわかっていない。


だから後世の僕らは想像するしかないのだけど、豊臣秀吉といえば庶民からのしあがった男で派手好き。

成金趣味というか。

そこにあんたより俺はセンスあるぜ!ともちろん口には出さないがそのオーラがビンビンな千利休がいる。

これはどうにも気に入らないんじゃないだろうかと考えてしまう。




千利休が作った茶室で現存してる”待庵”というのがある。
正確に言うと作ったのではないかと言う茶室なのだけれど広さがなんと二畳しかない。




極限まで無駄を省く美学。

侘茶を極めていくにつれどんどん狭くってなっていって二畳または一畳半の世界に辿り着いた(らしい)


この言葉あんまり好きじゃないけど究極のミニマリストだよね。



もうこれ以上削れないってとこに千利休は辿り着いてしまったのだ。




ここで豊臣秀吉にお茶を出すわけだけど、身長が当時にしてはでかくて180センチもある千利休。


ここで小柄な猿と呼ばれた秀吉と対峙する。



二畳しかないから振る舞いとかに敏感になるだろう。




あんたは天下を手に入れたかもしれないけどおれの方がセンスあるぜみたいな空気を漂わせてた(じゃないだろうか)って考えてしまう。



どの分野であれ自分より上がいるってのは覇者としては気にいらなかっだろうなーとか思ってしまう。



有名な金の茶室も千利休考案ではないだろうかって説もある。


豊臣秀吉が作ったと言っても当たり前だけど自分で木を切ったりDIYするわけじゃないんだから、誰かに命じて作らせたわけだ。


そうなるとこれはやはり千利休以外に思い浮かばない。


金をふんだんに使っていてこれを単なる成金趣味と見てしまえばそれまでだが、ある意味でこれも侘茶ではないかと。

例えば海外のこういう建築とか
日本だと日光東照宮のこういうのとか


こういういかにも凝ってるぜ!ってのに比べて”金の茶室”ってインパクトのある言葉から一旦離れて改めてみると、作り自体はかなりシンプルなのだ。


道具も金で作られているもののお茶をするための必要最低限の物しかなくて、無駄な装飾品とかは全く無い。


侘び寂び=枯れているって認識で見なければ、これもあらゆる物を削ぎ落としたある種の“侘茶”ではないだろうか。





随所に赤色が入ってるのが大きなポイントで、この絶妙なコントラストはやはり千利休のアイディアじゃないであろうかと。

この赤が金をより一層際立たせている(のではないかという見方もあるらしい)




特に自然光の中で見ると金の表面に赤がヌラヌラと反射して玄妙な世界観が生まれるらしい。




当時は電気ないからね。

展示品として外から蛍光灯の灯りで見るのと、中に入って自然の採光で見るのじゃ印象はかなり違うだろう。









茶碗なども干涸びた印象で”なんでこれが当時人気があってそんなに凄かったんだ?”と思った美術館の人が勇気を出して実際に使ってみた。



そうして水気を含んだら花が開いたように美しかったなんてエピソードもあるらしい。


道具はやはり使うためにあるのだとわかる良い話しだ。



ちなみにこういった枯れている様をお茶や陶器の世界では”かせる”と呼ぶらしい。

響きがかっこよくていつか歌詞に使ってみたい。



“かせたギター”とかさ。

持ち主がいなくなって埃かぶって隅っこに転がってるようなイメージが掻き立てられる。

そいつを誰かがまた撫でるように弾く。悠久の時を経て。

とか歌にしてみたい。



茶道具は当時からとても高価で、いや今以上に価値がすごくて諸説あるが物によっては現代貨幣に置き換えると何十億円もしたりしたらしい。



ある道具はなんと国ひとつと同価値だったとか。



合戦の際に織田信長が“そのお湯沸かす釜をくれたら命は助けてやるよ”って言ったけど渡すのが嫌すぎて釜と共に火薬使って爆死した武将がいるとか。



徳川家康が大坂夏の陣で大坂城を燃やした際に粉々に壊れた茶入を、わざわざ土の中から拾い集めて直させたとか。



異常なエピソードがたくさんある。



ちなみにその修復された“つくも茄子”って茶入は今も現存していて



こんなのなんだけど、手のひらサイズのお茶入れひとつが国と同価値って凄すぎる。

当時のバテレンの宣教師の日記には”マジ意味不明。土焼いただけじゃん。こんなのもし自分が買うなら千円くらいしか出さねーわ“と書いてあったとかないとか。


日記には外国人には全く価値がわからない。茶道という文化は世界的に見ても異質だみたいに書いてあったらしい。

まぁ日本人でも価値がわかる人は少ないだろう。

凄さが宝石とかみたいにわかりやすくないのだ。




ちなみに近年に研究者がX線写真を撮ってみたところ史実通りに修復跡がちゃんと写っていて”徳川家康の言ってたことマジですやん、、、“となった。

よーく見ても一度粉々になったなんてわからないもんね。

江戸時代の職人の技術凄すぎ!






話しが逸れてしまったが、千利休も大名以上に道具にはコダワリがあった。

ここからがやっと本題というか話したい内容になってくる。




利休についてもっと知りたい方は本を読んでみてください。

残ってる情報が少ないので未だにわかってない部分が多々あり、様々な著者によって色んな角度から人となりが検証されていて面白いです。

利休が切腹した場所と伝承されてたのが研究が進んだら全然違ったとか。未だに謎が多いらしい。








んで利休の”茶杓”ってのがあって抹茶の粉をすくうスプーンなんだけどこれが傑作らしい。



カウンターカルチャーである”侘茶”

“不完全こそ美しい”

って考えそのままにあえて節を真ん中に持ってきてある(らしい)



それまでの時代はスラーッとしてて雅なのが最高!って価値観だったとこにいやいや竹なんだから節があってこそだろう!ってことなんだろう。

茶道やったことないから全然違うかもしれないけどたぶんそういうこと。



花入れとかもあえてヒビが入ってるのを使って弟子が畳が水で濡れてしまいますと言ったら“この花入れは漏れてこそ美しい“と言ったとか言わないとか。


なんかちょっとトンチみたいだけど一休さんの系譜であること考えたら納得できてしまったり。



この辺の言葉を巧みに使って自分の思う美を押し通す感じもロックンロールっぽい。





ロックンロールもその成り立ちの過程で、ギターの音色は歪んでいくわけなんだけど



改めて“ひずみ“ってなんだろうと考える。


辞書を引いてみると

“物事が進行する途中で欠陥が生じること”

とある。



音楽好きの皆さんならご承知かと思うがロックンロールにはこの歪んだギターの音色は必要不可欠だ。

ギタリストが足元にスイッチを置いているのを見たことあると思う。


大まかにわけて何パターンかあるが代表的な物で言うと

“オーバードライブ“

は過大増幅に陥った際に性能の限界で飽和してしまった状態ということらしい。

つまり音を大きくしようとしたら名前のままオーバーに負荷がかかりすぎてしまったのをわざと再現するための機械だ。




ロックンロール黎明期は単純により大きい音で演奏しようとしたらたまたまそうなっちゃってただけなわけだが、現代の我々ロックンロールを演奏する人々はそれを“良い”と認識して故意に作り出している。




“ディストーション”というのもあってこちらもオーバードライブに似ているのだが“過大入力によってより潰れた状態”を指す。

わざとキャパオーバーにさせたあげくそれをさらに潰しているわけだ。


“ファズ“

は名前のまま”けばだたせる“または”ぼやかす“といった機能がある。

先程のオーバーさせて潰した音をさらにぼやかして毛羽立たせたいってことだ。


ロックンロールが好きでない人からしたら

“なんでわざわざそんなことするの?”

ってことになると思う。



僕らはその不完全で欠陥があって飽和し潰れぼやかされた音をなんらかの基準をもって

“良い音だ!“

”○○さんのギターの音色は最高だぜ!“

とかって良し悪しを判断している。




わざわざペダルやスイッチを色んな機械を使って歪んだ世界を創り出して尊んでいるのだ。


あれ?これって“侘茶”と一緒なんじゃないの?って思ったのだ。




良いギター=クリアで透き通った音とは限らない。(無論それが良い場合も多々あるけど)



むしろマディでダーティーなのがかっこいいって美学は茶器の世界と通じるものがあるような気がする。



もちろんギターの音がただ単に歪んでれば良いってわけではなくて、その中に僕らはしっかりと判断基準を持っている。

歪んだものの中に漂う艶とかも感じれている。

不思議な事だ。







んで、ついにやっと本当の本題。

もう少しです。頑張りましょう。


千利休が愛し重用した茶器に”長次郎の黒楽茶碗”というのがある。




真っ黒な茶碗だ。

なんでも食べ物が一番映える色は黒らしい。

知らなかった。料理屋さんでは白い皿を見る機会が多いから白が良いのかな〜と思ってたが実は違うらしい。

だからちょっと前にスレートとか流行ったのかな?


そう言われたらフライパンとかも黒が多いよね。すき焼き鍋とか鉄板も黒だし。

白が一番見やすいなら真っ白の調理器具ばかりになるはずだし。




お茶も飲食物。

抹茶の緑が一番映えるのは黒って千利休は気付いたんだろう。



豊臣秀吉は黒じゃ地味だからと長次郎の赤楽茶碗がお気に入りだったらしい。


なんか想像より地味だけど侘び寂びの世界においてはこれは派手な方なのだろう。


たぶんわざと割って直してるんだろう。

ヒビをあえて隠さず見せつけている。

そこが”良い”んだろうね。




ギターにも”レリック加工”って故意に汚れや傷を作るスタイルがある。

こういうわざとやってるのじゃなくても弾き込んだ傷だらけの楽器をかっこいいと感じる美学がある。

やっぱ侘茶とロックンロールは似ているなぁ。



んで長次郎の黒楽茶碗に話しを戻す。



円形であるが正円ではない。

歪んでいるか?と言われたら歪んでるとも言えない。

左右対称でもない。

稚拙にも高尚にも見える。

曖昧であるが、そういってしまうにはあまりに強靭。


つまり肯定と否定が共存しせめぎ合っている。

完璧ではないが不安定でもない。




と相反する混沌とした要素の中で、しかし物として確かに存在している。




僕のような茶道に疎い門外漢には正直言って黒楽茶碗の凄さはしっかりと理解はできないが言ってることはわかる。




で、これは人によって表現された作品なわけで作者がいる。

長次郎さんだ。


凄さについてある人が言うには

“どうして手を止めることができたんだろう“

と。


ろくろを回して作るのとは違い、泥を手で捏ねて整形する。

もちろんやりすぎてしまったらダメだ。

しかし不完全の美に答えはない。

何を思ってどう考えここで完成と手を止めたのだろう。

引き算の美学。

それが凄いねと。






ロックンロールの場合は陶器のようにやり直しが効かないってわけではないので、しょっちゅうツマミをいじくっている。

ああでもない、こうでもないと好きな音、最高の音を求め試行錯誤を繰り返す。

ギターもベースもドラムも。

その作業に終わりはない。






なにかを”表現”する場合、色んな苦悩や葛藤がある。


特にロックンロール誕生からとうに半世紀以上が経った現在新しいなにかを生み出すのは非常に困難だ。



千利休が侘茶を広めたときのように、ブルース、ソウルから始まってロカビリー 、サイケデリック、フラワームーヴメント、ヘヴィメタル、プログレ、パンク、ニューウェーブ、、、と多種多様なやり方でロックンロールは転がり続けた。



僕の中では80年代くらいでもうある地点に到達してしまったという感覚がある。

その証拠にかどうかわからないが、ギター雑誌の大多数の表紙は未だにジミヘンでピートタウンゼントでエリッククラプトンでエディヴァンヘイレンなのである。



音楽に例えるならばさしずめ村田珠光はロバートジョンソン、武野紹鴎はチャックベリー やリトルリチャード、千利休はビートルズといったところであろうか。





この到達以降は時代に沿った解釈、つまりモダニズムかもしくは他分野と手を取り合うミックス、もしくは速弾きだったりとより複雑化または特化させるバロックといった手法しかないのだ。



その大きな表面要素とは別に個人的問題がある。


つまり僕の中での表現へのアプローチや気持ちの在り方は年々変化していくのだ。



ずっと稲垣足穂言うところの“詩は歴史性に対して垂直に立つ“にそうだ!その通り!と思って生きてきた。

なにか表現をするならば自分の生きてる時代に対して飛び出た釘のように屹立すべきというか。



しかしながら、いつまでもティーンエイジャーの気持ちを持ち続けることは不可能だし、流行りにも共感しにくくなっていく。

ロックンロールは怒りが原動力と思ってはいるが、四六時中ずーっと怒ってるのもなかなか難しいし。





自分の中ではここ数年やってる古典ブルースを新解釈していったりという取り組みはモダニズム的と言えなくもないのかなと思う。

ただ時代に対してやってることではないような気もする。単なるマイブームというか。自分にとって新基軸ではあるけれど。




今回、千利休を知ってまた自分の年齢や活動を加味してもっと踏み込んでみると”生きてるってなんだ”というような根底にぶつかる。




そこで生まれる矛盾を抱えてなお存在するということ。

不安定だけど確かに在るってのが人間的で表現の大事な部分なのかなと思った。


難しくてよくわかってはないんだけど。




僕の好きなキャデラックレコードって映画の中でも”ブルースは不条理”なんだってセリフが出てくる。



禅の世界でも”悟り”というのは悩みが無くなることではないらしい。

より強くなった魂で色んな悩みにぶつかれるようになった、またはなろうねってことみたいだ。



ブルースも苦悩を歌っているが、ただ悲観するわけではなく根底には生きる力強さがある。


それは例えばBBキングのあのチョーキング1発!みたいなやはり引き算の美学なのである。




話しは遡って冒頭に戻る。

コロナ禍云々の時代性、10年を超えたバンドのキャリア、自分の年齢その他諸々の事象を抱えて引きずって蹴り飛ばしてなお音楽のワイルドサイドを歩く。


そしてまた新宿ワイルドサイドに辿り着いた。


そこでリスペクトするアブクス、the IGNORANTSのライブを見る。
 

ひたすら音楽と向き合ってきた人々だ。




揺るぎないロックンロール!!とは思わなかった。

むしろ揺らいで、それでもなお強靭に存在する。



諦めずにやってるとかそういう俗世的な事も思わない。

むしろ何度も諦めて、そして何度もOn The Road Againしてるだろうし。




このずっとやり続けてきたバンドマンの魅力を言葉にあらわすのは難しい。

一言にしちゃうと”爆音ロックンロール最高!”ってだけなんだけどね。



脆くて温かくて激しくてひたすらピュアでシンプルでカオスでかっこよかった。




本を何冊も読まなくても答えは最初からここにあったんだなあと思った。




自分のライブも

おれに勝るものなんてありゃしないし

おれが勝るものもありゃしないのさ


と歌詞のまんまの気持ちで演奏した。


お客さんの反応が良くて楽しかった。


音も良かった。





よかったよかった。めでたしめでたし。





今回はライブレポが短くてすみません。



現代の茶道は400年後のロックンロールなのかもなあとも思った。

だとしても、そんな後のことは知ったこっちゃないんだけど。




ブラザー、シスター、不完全でいよう。

最後まで読んでくれてありがとう。

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